弓削神社


弓削神社の創建は應永3年(1396)室町時代と伝えられ、伊予の国の武家方の総帥であったと伝えられている河野通直の子孫で、河野宗賢が承久3年(1221)北条の高縄城と内子町石畳の黒山城を左右に見渡すことのできる中山町永木の天山に城を築き、その後大洲市大竹の松葉城に移りすんだと記されている。
河野氏がこの地を離れる際、城の南に当たる東の地に弓削神社を創建。
河野家先代の総支配下にあり、海の要塞の一角にあった弓削島の弓削神社の分遣杜とし「天照皇大神・天日鷲主命・三女命」を祭神とした。
河野宗賢が松葉城へ去った後、伊予の守護職(南朝方)にある黒山城の城主久保源高実が天山城を要塞砦として治めるようになった。
宗賢が弓削神社を築き、高実は黒山城の城下古橋の地に三嶋神社を創建。「大山祇神」を主祭神とし、更にその下流武家屋敷の近くにもう一つの社を築き「天照皇大神」を主祭神として配るようになった(社名不祥)。
近代に至っては双海町大字高岸、三嶋神社の末社で、明治43年(1910)岡の成地区の河内神社、恵比寿神社(所在地不明)等を合祀し、現在に至っている。
弓削神社境内には椎の巨木が鬱蒼と茂り、渇く事の無い豊かな涌き水で弓削の池という用水池が造られている。
後に「黒山城主」が子孫をそこに住み着かせる為に自ら築いたものか、それとも神社建立の際、河野氏が回りに池を築き神社を城に見立てて池を要塞の堀とし、中央に橋を架けて小さな城の形を造り神々を祀ったものかは不明である。
この池は町指定の景勝地でもあり、石畳地域の穀倉地帯とも言われる東地区の水田の大半を潤している。
「黒山城主」の子孫で久保好孝寄進の鳥居一基と常夜燈二基は、文化6年(1809)建立、手洗いは享和2年(1802)とあるが寄進者は不明。
主祭神は「天照皇大神」であるが、猿太彦命 天日鷲主神 大巳貴命 三女神事大主命 瀬織津姫命 等が合祀されている。
現在の社殿は明治30年(1897)に改築され瓦葺となり、昭和27年(1952)に狛犬二体を氏子「山田音市 山本定治」の両氏によって奉献されている。
また、弓削神社では氏子の人々が「日参」を永く続けている。
日参とは「日参り信仰」と言われ、第二次世界大戦中は武運長久と出征兵士の安全を祈願して多くの地域でこのような信仰が行われた。
石畳では標高896メートルにある牛の峰地蔵堂と、牛の峰をさらに下った大字地区の総鎮守である高岸三島神社(双海町)へ地域全員が二戸一組で雨の日も風の日も、一日も欠かさず旗を掲げてお参りを続けたのである。
世の中の変化に伴い、神仏から人の心が遠ざかりつつある現在であるが、東の地区では「五穀豊穣能と家内安全」を祈願し、弓削神社への日参信仰は守り続けられ、人々の心つくりも受け継がれている。
縁日は24日で4月には地区の人々が集まり春の大祭が行われ、神楽も奉納されている。
また8月には、弓削神社より少し離れた場所で盆踊りが行われ、地域を離れている息子や娘たちが孫子を連れて帰省し、たったひと夜であるが、昔ながらの賑やかさの中、祖先の霊を慰める風景がある。

岡の成地区には、「射場」という地名が残っている。
削り完成した弓を使い、「射場」にて弓の稽古をしていたのかもしれない。
                                    故 上岡明夫氏著「つなぎ」を引用、改編
下は、管理人が 弓削神社を訪れた時の写真を少し掲載。そして動画のリンク先です。

 

石畳から中山方向へ進むと、弓削神社に到着。 池には屋根つき橋がある。


  

屋根の内には水面の光が映える。 「黒山城主」の子孫、久保好孝寄進の鳥居が残る。



弓削神社を訪れた時の動画です。


弥生月の弓削神社   https://youtu.be/SGUZoZLicn8

皐月の弓削神社    https://youtu.be/1O3xy0Abv5g

4月のお神楽風景    https://youtu.be/fcmuxDFvHBc

菖蒲園          https://youtu.be/GG3ooxS1oOg

  



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