黒山城

黒山城合戦記は、こちらです                  


石畳と双海町大久保の境界にある標高730mの山頂にあり、仏峠と鳥越峠から山の稜線伝う古道を、現在でも歩いて行くことができる。
山嶺の中ほどに小高く盛り上がった個所があり、国土地理院の三角点が頂上を示している。
その地点こそ、今から約800年前に城が築かれたと伝えられている黒山城跡。
黒山城は稜線を通って登る小さな曲がりくねった道のほかは奇巌、切り立った岩の絶壁に囲まれ、雨山城と同様、自然の要塞に恵まれた所である。
築城は治承年間(1177−1180年)の頃平家の武将が築いたと伝えられ、源氏の世代には藤原氏が城主となり南北朝時代に藤原高近に至って断絶したと伝えられ(この間約160年)、大洲喜多地方で最も占い築城といわれる。
「久保源高実」が伊予の守護職(後醍醐天皇の南朝方)となって雲州久保郷よりこの地に移り、正平24年(1369年)に再びこの地に城を築いた。
大久保・上灘・高野川・高岸・今坊・石畳・麓・堺・柳沢辺りを領し、後に尼山城(天山城または雨山城(中山町))山之砦、平太森・城首砦(以上双海町高岸)馬乗坂砦・松尾砦・失櫓鼻砦・(以上双海町串)安久寺砦・(双海町大栄)漆の上砦(内子町石畳)に次いで高岸城を築き以上10ヶ所に域砦を構えて「久保源高実」は中山の合田氏内子の曾根氏等とカを合わせて南朝方に忠節を尽くした。
高実は応永4年9月18日没、(1397年)位牌は双海町大久保の道玄寺と内子町石畳の明光寺に安置されているという、子孫が「掃部助照時因幡守政照・三河守宗時・常陸介時政・伊与守政儀・修理太夫輝基・因幡守照永・右近太夫照次・右兵衛尉照信・縫殿助義武(好武)」と代々居城した。
久保縫殿助義武は天正元年(1573年)黒山城主となり天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国平定の際小早川隆景に降り同14年下城し現在の石畳小狭字窪替地に隠居し、後に子孫は・石畳・高岸・麓・境・柳沢・河内・米湊・等各村々の庄屋となった。
黒山城創築以来約400有余年、久保源高実が再び城を起こして以来217年にしてこの山から城が消え去ったのであるが、この地方の古きことを語るとすれば黒山城にむすびつくものがおおいようである。
黒山城の遺品に「金の茶釜」ありとも伝え聞くが近代になりて、今は亡き古老の話に古橋の山崎家にそれらしき物を見たと言う、縁はかけ古びた小さなものだったが煮えたぎる湯が外側から内側にかえりこぼれる事なく、自分の家の茶釜とは違ったところがあったと言う。
後に論田の崎岡家にあったとも聞くがたずねて見ても不明・・・。 この茶釜は「茶湯釜政五朗(百姓)」と言うものが持っていたとも伝えられている。

故 上岡明夫氏著「つなぎ」を引用、改編




下は、管理人が 2015年12月6日(日)に黒山城を訪れた時の写真を少し掲載。そして動画のリンク先です。

雨山城から見た黒山。ここに黒山城があった。白い崖が断崖絶壁の「百間岳」


 
石畳古橋地区からの古道はわりと平坦で歩きやすい。 仏峠に鎮座する仏さん。


  
土佐勢を迎えた断崖絶壁の「百間岳」から石畳落合地区を望む。 黒山城の2の丸、または3の丸の位置か、かつて門構えに使われたのだろうか、巨石が残る


  
このように、平坦な広場がある。 黒山の城跡にはこのような広場が多く、一つ上の段へ、次々と 7つほど続く


 
かつては整然と積まれたであろう石垣だが数百年の時を経て崩れたようだ。 唯一当時を偲ばせる城の石垣か。


 
本丸から鳥越峠方向に少し下ると、巨石群と大きな石組みがある場所に到着。


  
この巨石群で千日修行をした石畳麓の「長寿院さま」という方がいたらしい。石碑には「天保15辰千日行主梺」、「妙見尊供 長寿院」、「高岸 施主 石屋忠蔵」と記されている。この地で千日も修行するとは、一体どのような人物だったのか。
黒山神社があった場所らしい所に残る祠。
その祠近くにある石組み。神社跡の石組ではなくて、お墓のようにも見える。。。



黒山城を訪れた時の動画です。

数十年ぶりの黒山城訪問   https://youtu.be/_cx-MG2LZIY


<紹介後記>
黒山城は、石畳古橋地区に残るキリシタン地蔵群近くの古道から行くことができます。
雨山城と違い、歩きやすい古道が今でも残り、約800年前に築かれた城跡へ案内してくれます。
本丸があったであろう国土地理院の三角点のある 730メートル地点までは、1時間かかりません。ただし、山中では携帯のGPS電波が届かない場所がありますので、用心しましょう。
土佐勢を迎えた岩肌の断崖絶壁「百間岳」に到着後、しばらく進むと平坦な場所に辿り着きます。
そこが1の丸とすると、その後、一段高い平地を、計7つほど上がると730メートルの本丸地点です。
管理人は、小学生の時の遠足でこの地に来たことがあり、その時に井戸を見たことがあります。
雨山城を調査した際、土佐勢がその存在を信じていた井戸を見つけられませんでしたが、ここ黒山城では井戸があり、水があったのです。
今回、この懐かしい井戸を見つけようと広い城跡のいたるところをウロウロと捜索するも見つけられず。次回に持ち越し。。。
なお、本丸から何段か降りたところは窪地になっていて、以前ここを訪れた一行が、その窪地に水が溜まっている光景を見たそうです。ここ黒山城では、さほど飲み水には困らなかったのかもしれません。
この黒山城、雨山城のように測量をしようと考えていますが、なかなかの広さなので、何度かに分けて行う必要がありそうです。
とても広い城跡、そして「兵(つわもの)どもの夢のあと」であるこの地、いつ頃にどのような人達がどのような建物に何人住み、食べて寝て、そして敵勢の動きをどのように評定して攻めに応じ、生を全うしていたのか、想像もつきません。
黒山城の所領の広さから、腰元も含めて相当な人数がいたのでしょう。
今後の測量途中、または就寝中の夢にて、古の時代に生きた彼らに会い、約800年にわたる時代のコト、是非とも聞いてみたいものです。
                                       (2015年12月 ページ管理人より)

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