雨山城


初めは天山城、又は尼山城と書く。後述の通り、雨に助けられたことで、雨山城に改められたという。
承久3年(1221)に始まる城で、高縄城(北条市高縄山)主河野通信の義弟、河野宗賢が城を追われ、天険の天山(尼山)に城を築く。(河野通信は伊予水軍の将。壇ノ浦では源氏方についた)
河野宗賢は、承久(じょうきゅう)の乱(1221)で義兄の通信らとともに後鳥羽(ごとば)上皇方について北条時房配下の大軍に攻められ、この地を去り大竹の松の城(大洲市大竹)に移ったと伝えられる。
南北朝時代の頃(1336〜1392)、は合田氏の支える城。
正平末期(1360)の頃は黒山城主久保源高実の要塞であったという。
戦国時代には来島氏の子孫、城戸宇京太夫通成が居城。
天正8年(1580)、土佐の長宗我部勢が天山城を取り囲み10数日間の激戦にも要塞堅固で落城せず土佐勢は長く取り囲み、水攻めにして降伏を待った。
城兵は渇きに苦しんだがよくこれに耐えて戦った。
水攻めに対して城主は一計を策し、米に灰を交ぜて馬の足を洗うかごとくみせかけ、これが朝日に映えた。
これを見た土佐勢は、井戸水がまだ余っている、これ以上待てぬと判断。急戦法を取り城の近くに攻め寄せた。
尼山の城兵はかねてより、敵勢が攻めてくる場所には油を塗った竹皮を敷き詰めていた。
敵勢が攻めてくると、大石や丸太等を敵兵目がけて投げ降ろし、攻めのぼる兵は将棋倒し。
残る敵兵が上って来れば油を塗った竹皮に足を取られて転ぶところを弓鉄砲で狙い撃ちにし、敵は惨敗。
しかし土佐勢はあきらめず、遠巻きにして兵糧の尽きるのを待った。
城兵は、兵糧よりもいよいよ水に苦しんだ。
ところが幸運にも恵みの雨が降り続き、城の急は救われた。
おかげで城兵は弱らず、さすがの土佐勢もこの小さな城をついにはあきらめて引き上げて行ったという。
このことから雨に感謝し、「天山(尼山)城」を「雨山城」と書くようになったと伝えられている。
天正15年(1587)通成は下城し、右京亮は三島神社(中山町永木地区)に脇差と鏡一面を奉納しているという。
後に城主の子孫は石畳の隣の里である永木に降りて住み着き、庄屋となって村を治めたとも伝えられている。

故 上岡明夫氏著「つなぎ」を引用、改編   



下は、管理人が雨山城を訪れた時の、簡単な測量図と撮影写真を少し掲載。動画2本のリンク先です。
雨山城のてっぺんは、このような地形。

周囲は、全て転げ落ちるような急傾斜ばかり(2015年11月21日に測量)。

確かに土佐勢は、攻めるに難儀する地形だ。


  
古道は道の判別がつかず遭難の危険があります。

そこで、杉が伐採された急斜面(傾斜角45度)を30分かけて這い上がります


 
雨山城のあった場所には、石の祠があります。 水、酒、ミカンをお供え


  
上は、見張り場所だったようで、とても広い。 下は見張り場所から黒山城のあった黒山を望む


 
見張り場所にはベンチ風の石。

侍たちがここに腰を下ろし、人生を語り合ったかも。

下は、牛の峰方面に続くと思われる古道が見える



雨山城を訪れた時の動画です。

初めての雨山城訪問   https://youtu.be/6yifwfdNnbo

雨山城 再びの訪問   https://youtu.be/fkhR_QWAlYg

雨山城 みたび目の訪問 https://youtu.be/EyJploghCaE



<紹介後記>
雨山城は、石畳の弓削神社近くから行くことができます。
古道はありますが、草木が生い茂っていて、途中で道が分からなくなりました。
また山中では、携帯のGPS電波も届かない場所があり、遭難を避けるため、杉伐採の急斜面(傾斜角45度)を這い上がって行くのが近道。
伐採された杉の幹やそこから伸びた新芽の枝をつかまえて、30分かけてやっと斜面を登りきることができます。
最後に一段高い所へ続く岩の階段を上ると、割と平坦で広い林に到着。そこが「雨山城」の跡。
石組みの祠があり、四角推の材木に「文化財を大切に」との文字が見えます。
これを裏返しにすると「雨山城館跡」の文字。さらにその側面には「昭和六十二年五月」の文字。
今から約790年〜440年ほど前、この割と平坦で広い林に何らかの建物があり、この地を守る者たちが何人かいたのでしょう。
今は松や杉などが生い茂り、当時の城・館跡や規模など、面影はうかがい知れませんが、樹木が無ければ、360度確かに、かなり遠くまでの見張りが出来たはず。
そして、土佐勢の攻撃の時には、西の山に見る同盟を組んでいた黒山城とは狼煙の煙で敵勢の動きや攻撃の様子を伝達していたに違いありません。
山のてっぺんに位置する土地なので、雨水を溜めて飲み、または山を少し降りた小川の水を汲み上げて飲んでいたのでしょう。
しかし先日、ツヨシさんが言うには井戸があったという証言があります。
前述のように、土佐勢が井戸水の存在を認識していた事実があったことから、管理人が雨山城の敷地を測量した時、発見できなかった可能性があります。ここは、再調査する必要があるようです。
一方食料は、一定の周期で麓から運んで来たり、敵に投げる石や丸太の備蓄や保管場所の整備など、そこまでして当時の侍たちはこの地を警護し、守り、敵の攻撃には果敢に立ち向かい。
そして時には、写真にある石のベンチに座って語り、同盟を組んでいた黒山城とは山道を行き来して交流したり。
外敵を迎える緊張した時間が常にある中、普通の暮らしをしていた男たち、どんな連中がいたのか、会って話しをしてみたいものです。
雨山城は杉伐採の斜面を這い上がれば短時間で行くことができます。
しかし、急斜面にある伐採された木々や倒木、そして鋳薔薇の中を這い上がることなるため、擦り傷はもちろん、転落、捻挫、骨折といった危険が伴います。
この記事を読まれて興味を持たれても、行かない方が無難です。
単独登山は特に危険です。

2015年12月20日(日)、永木方面からの登山ルートを確認しました。
石畳側の杉伐採斜面を這い上がるより、こちらの登山ルートの方がすんなり雨山城へ行けます。
動画「雨山城 みたび目の訪問 https://youtu.be/EyJploghCaE」を参考にしてみてください。
ただし、一人での登山は危険です。
                          (2015年12月 ページ管理人より)

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